タイの青春映画と日本の青春映画を考察してみる

青春とは何か

国が違えば表現も違う

ここまでの事を総してみると青春映画って何だろうという一言が出てきそうだ。タイ映画のミウの歌から始まり、青春映画の代表作と言ってもいい日本の作品を取り上げながら青春の素晴らしさも見えたが、同時にそれだけ眩しいくらいに謳歌している人がいる世界とは180度異なる世界では、生きることとは何か、自分に出来る事はないかと錯綜する少年たちの群像劇が表現された作品もある。また少年犯罪をテーマにした作品について見ても、戦慄を覚える内容に垣間見える10代という時期においてもたらす行動によって、自分にどのような影響をもたらすのかといろいろ考えてしまう。

キラキラした眩しい時代を過ごした人にすれば世界とはなんて美しいものなんだろうと映るかもしれない、けれどその逆に現実とはどれほど残酷なのかとその圧倒されるほどに押し寄せてきて、自分がいかにちっぽけな存在なのか、自分は何のために生きているのか見いだせないといった葛藤や絶望を世界を通して知る青少年たちもいる。そのどれもが間違っていない、全てが正しく紛れも無いリアルな世界であると知った時ほど、優劣というものに縛られるのかもしれません。

それはタイとて同じことだ、ただタイと日本を比べた場合には比べようのない現実がそこにある。自分たちはこういう時代を過ごしていたが、また全く別の国で過ごしてきた人々にとって、あたりまえだと思っていた幸福を手に入れることがどんなに難しいことか、知ったときにどんな風に思い、考え、行動するかで人生に及ぼす影響も変わってくるだろう。

共通していること

国籍や民族意識、宗教なども異なっているタイと日本の10代という時期に至る青少年時代だが、国政などの状況にもよるが何も共通しているところが全くないというわけではない。ではどんな所が共通しているのかというと、自分たちがこの先どのようにして生きていけばいいのか、という指針が見えないことではないか。

状況的判断で言えばタイよりも日本で暮らしている学生たちの方が圧倒的に環境は優遇されているだろう、贅沢を言えるほど裕福ではないが夜間に外出する自由が認められており、思想や個人の意思を持って自由に行動する権利が認められている。メディアにしてもどんなテレビを見てもいいし、SNSも好きなだけ使用できる。恵まれているといえるだろう、現在のタイにすれば国外からのテレビ報道も確認できなければ、インターネットも満足に出来ない。さらに夜間は首都を始めとした多くの地域でクーデター後も戒厳令が説かれずに外出が禁じられている。もし出ているところを発見されれば拘束はもちろん、最悪射殺されてしまうこともあり得るという。

日々の現実だけでもこれほど乖離している、海を超えた先にある国が晒されている現実、映画の中でリアルに表現されるクーデターや内戦のような状況下で市民たちは安寧な時間を手に入れることも叶わない。人気の観光地としても名高いタイだが、そんな国で暮らす10代の若者たちは本気で自分たちの将来を見つめなおす時間に至っているのかもしれない。日本の学生では感じられない、危機的状況で自分たちが何をすべきなのかと深く思慮しているはずだ。

悩んで、挫けて、悔やんで

青春は甘酸っぱいと言ったが、個人的にそうだと感じたことはない。むしろ青春ほど現実を思い知らされる瞬間はないと感じたくらいだ。世界という基準で考えればいかに自分がちっぽけな存在で、自分がいなくても何をしても影響など及ばない、10代の頃はそんなことばかり考えている人もいるだろう。出来るなら誰もが羨むような青春を過ごしてみたかった、仲間と共に切磋琢磨して目標を達成する実感を味わってみたかった、今となっては中々届かない感覚となってしまった人も多い。しかしだからといって希望を捨てればそれでどうにかなるわけではない。

時に間違えることもあるだろう、上手く行かずに絶望もするだろう、今までしたかったことをすればよかったと後悔の連続に苛まれたりするだろう。そのどれもが経験だ、青春映画とはそうした学生からすればでかい生涯が立ちふさがって解決していき、見事解決を果たす瞬間ほど満ち足りたものはない。日本の青春映画というカテゴリーで語られている作品の中には、それだけを表現しているものもある。『青の炎』ように無気力に過ごして何をしたらいいのかわからない九条の姿があるように、『スウィング・ガールズ』のように落ちこぼれと言われて何もなかった少女たちが、音楽と出会って音楽を楽しむようになった姿もある。

出会うきっかけなど本当に瑣末なものだ、ただそうした一幕に遭遇出来ていればこんな青春を過ごしてみたかった、そんな感情が多くの作品には込められているのかもしれない。